サミー・デイビスJr
Sammy Davis Jr (1925-1990)
ラスベガスのショウを演じる芸人に欠かせないのがタップダンスだ。
タップには「リハーサルド・タップ」と「ジャズ・タップ」とがあり、前者が予め決められたコースに沿ったダンスであるのに対し、後者のジャズ・タップはジャズのアドリブと同様に即興でダンサーが自由に振り付けを創っていくもので、確かなテクニックに裏打ちされた創造性が要求される。
天性のリズム感覚でジャズ・タップを得意にしていたのが、サミー・デイビスJr.だった。
サミー・デイビス・ジュニア、1925年ニューヨーク州ハーレムに生まれる。
父親のサミー・デイビス・シニアはクラブで活躍するボードビリアンで、彼は幼い頃からショウ・ビジネスで生活する人たちに囲まれながら、芸を仕込まれたのだった。
卓越した唄とダンス。物真似を交えた軽妙なトーク。
ニューヨークのクラブを中心に営業していたサミーの評判は、日増しに高まる一方だったが、一流の劇場への出演は許されなかった。
時代が黒人のスターの出現を、まだ認めていなかったのだ。
彼の人生を語るとき、外すことができないのが謂われなき迫害、人種差別との戦いだ。
サミーは第2次世界大戦が始まると志願して軍隊に入隊したが、そこでも黒人として不当な扱いを受け、屈辱的な体験をしている。
のちにスウェーデンの美人女優(白人)と結婚したときも、人種偏見をもつ者たちから暗殺などの脅迫を受けた。
また、サミーは1954年、交通事故で左目を失うというアクシデントにも見舞われた。
当時のレコード・ジャケットで眼帯を付けているのは伊達ではない。このとき彼の左目は空洞だったのだ。
しかし持ち前のバイタリティが身上のサミーは、度重なる障害にも果敢に立ち向かい、1956年、人種差別を扱ったブロードウェイ・ミュージカル「ゴールデン・ボーイ」に出演。
彼の演技は高く評価され、トニー賞にノミネートされた。
優れた芸を披露してもなかなか正当に評価されなかったサミーに、救いの手を差しのべたのが、フランク・シナトラだった。
イタリア移民の子として育ったシナトラは、権威に対して激しく抵抗する反面、マイノリティに対しては面倒見の良い男だった。
『オーシャンと11人の仲間』、『七人の愚連隊』などの映画で共演し、1987年にスタートしたシナトラのワールド・ツアーにもサミーは同行している。
ライザ・ミネリ、サミー、シナトラの3大スターが顔を合わせた夢のような日本公演に、興奮された方も多いだろう。
サミーの眼帯を止めさせ、義眼を入れてサングラスをかけるよう勧めたのもシナトラだと言われている。サミーはシナトラと出会ったことで、全世界から受け入れられるエンターティナーへと飛躍したのだ。
1990年5月16日、ラスベガスのネオンがいっせいに消された。
この世を去ったサミーに追悼の念を表してのことだった。
さよならを言う時はいつも、少しだけ死ぬ気分になっちまう。
さよならを言うたびにいつも、少しだけ心が震えちまう。
神よ、どうしてあいつが去っちまうのを許してしまうのか?
死後13年を経た現在、我々はレコードに記録されたサミーの「Ev'ry Time We Say Goodbye」を聴くことができる。そこには、コール・ポーターが本来用意していた恋することの切なさよりも、サミーが語ってくれた人生の切なさを聴くことができる。
今宵も、サミーの思い出に乾杯!