ゴジラ

ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃

東宝/105分 (公開:2001年12月)

平成「ガメラ」三部作の金子修介監督による「ゴジラ」シリーズ25作目。
長谷川圭一(『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』)と横谷昌宏(『溺れる魚』)、金子監督の共同脚本。
前作『ゴジラXメガギラス』と同じく、第1作『ゴジラ』(1954)の後日談という設定。他の作品との関連性はない。
グァム島沖で消息を絶った米原子力潜水艦。捜索に向かった防衛海軍が、海底でゴジラと思われる生物を発見。<……『キングコング対ゴジラ』のオープニングと同じ趣向。

48年前、ゴジラの上陸で家族を失った防衛軍の立花准将(宇崎竜童)は、ゴジラ襲来を警戒するよう軍上層部に促すが、平和に慣れきった軍は自らの兵力を過信し、立花の提言は黙殺される。<……平和ボケ・ニッポンの国防意識を批判。なれど、立花准将の失望や苦悩が描かれていないので、インパクトに欠ける。
ゴジラ上陸後、作戦本部にて、「怪獣に呼び名は必要です」「お前、何だか嬉しそうだな」と、呑気なやりとりがあるが、これはマニア向けのお遊び。『ガメラ』の繰り返し。かえってシラケる。これら組織の中での苦悩をキチンと描いていないので、クライマックスに立花准将が、俺がやらねば……と特攻を決意する使命感が表現されない。<……いや、それ以前に、大勢の兵隊たちが尊い生命を犠牲にしている。ラストの、ゴジラを討伐して立花が無事帰還したとき、作戦本部の全員がニコヤカに笑っちまうのは演出が間違っている。あの場面で笑っていいのは、立花に個人的な感情を抱いている(と思われる)南果歩だけでしょ?

平行して描かれるのが、今回リニューアルされた怪獣の属性変更の説明(状況設定)。いかがわしいオカルト番組を制作しているデジタル放送局のリポーター(立花准将の娘・新山千春)と、その友人のフリーライター(小林正寛)が、謎の老人(天本英世)と接触することにより、ゴジラ復活の謎に迫る。
ゴジラは、太平洋戦争で命を散らした人々の残留思念(怨念)の集合体であり、ゴジラから大和の国を護るべく聖獣たち(バラゴン、モスラ、ギドラ)が永い深い眠りから覚醒する。またラストで明らかになるが、この老人もまた幽霊だった、というオチ。<……この解釈が怪獣マニアに賛否両論を喚起して、こんなものゴジラ映画じゃないとの論争が、公開当時繰り広げられた。
俺は……面白けりゃどっちでもイイと、言っておこう。
ゴジラが白目だろうが、キングギドラの首が短かろうが、俺はどうでもいい。

ただ、ひとつだけ現在のシリーズに苦言を呈しておくと……
ゴジラと防衛軍の攻防戦にばかり焦点が当てられていて、昭和のゴジラ映画(監督:本多猪四郎/脚本:関沢新一)にあった、破天荒で縦横無尽なアイディアが皆無ってこと。新怪獣でもリバイバル怪獣でもいいが、他の怪獣が登場しても、ただの客寄せ材料(フィギア等の販売目的)に過ぎず、最終的に防衛軍とゴジラの戦い以外、なにも描かれていない。
今回も同様で、バラゴン、モスラ、キングギドラが登場しても(どいつも弱っちいので)クソの役にも立たず、ゴジラ侵攻を阻止することは出来ない。
『三大怪獣・地球最大の決戦』(1964)で、お婆ちゃんが愉しみにしているテレビのバラエティ番組にモスラが出てきて、リアルな茶の間と架空のインファント島がダイレクトにつながったような卓越したアイディアが、怪獣騒動のサブ・ストーリーに施されていた生活感が、いまの「ゴジラ」シリーズにはない。
平成「ゴジラ」で唯一アイディアを評価できるのが、大森一樹(監督/脚本)の『ゴジラVSキングギドラ』(1991)。タイムマシンを使ってゴジラを消滅させようと企んだり、未来のテクニックでキングギドラをロボット化したり(それに乗り込んで操縦するってのは馬鹿馬鹿しいが)、面白かった。

だから、単純なアイディアと生ぬるい特撮に飽きていた怪獣ファンは、平成「ガメラ」に喝采を贈った。
だから、平成「ガメラ」の金子修介に、新しいゴジラを期待したんだよね。

期待は、半分裏切られ、半分叶えられた。

ストーリーは……護国聖獣とかの屁理屈を展開するなら、ちゃんとやって欲しかった。
1作目のように、ゴジラをアンチ・テクノロジーや反戦のメタファーとして描くのも可。しかし、それをストーリーのなかで合理的に説明してしまっては、つまらない。
まして中途半端な説明なら、無い方がまし。

目的などなく、動物的な本能で日本に上陸したイノセントなゴジラが大暴れ。
その被害で地下が陥没し、地底に眠っていたバラゴンが暴れ出す。
謎の巨大隕石を格納していた研究施設が騒動の煽りを喰らって火事になり、異常高温によって中に封じ込められていたキングギドラが復活。
国防軍は、あの手この手と作戦を遂行するが、決め手に欠け、どれも成功しない。
騒動を収めるためインファント島からモスラもやって来て、ひっちゃかめっちゃかの大騒動。
バラゴンはゴジラに負けて地下に逃れ、キングギドラは宇宙に帰ってゆく。
モスラはゴジラを海に追い返すが、力尽きて死んでしまう。
しかし、タマゴが孵って、2匹の幼虫がインファント島に帰ってゆく。
――終――

これでいいじゃん。

一方、怪獣騒動のリアルな特撮は、平成「ガメラ」シリーズを踏襲したもので、ヒステリックなほど残酷な描写は、いままでの「ゴジラ」シリーズになかったものとして評価したい。

今度の映画では、かなりの人間が死んでいる。
これまでのシリーズだって、ゴジラの通り道になってしまった場所は、屍が累々としていたに違いない。けど今回は、人が死ぬ場面を次々と描写している。
「同じ地球に住む生き物なのに、殺しちゃうなんて可哀相」とダベっていた女の子(篠原ともえ)を殺し、バラゴンを可愛いと言って記念写真を撮ろうとした観光客(近藤芳正と奥貫薫)を殺し、「ゴジラは赤くねえ」と博識ぶりを示した漁師(中村嘉葎雄)を殺す。
怪獣に好意をもっていたり同情的だったり、詳しかったりする登場人物を殺す場面が印象的。<……まるで、いい歳して怪獣映画なんぞにウツツを抜かしている莫迦は、みんな殺されちまえって言われているみたいな気分。
どうせなら、ヤラセ番組を制作しているBS放送局の連中も皆殺しにすれば良かったのに。

演技陣は、総崩れ。
特にメインの宇崎竜童、新山千春の「独り善がり」の演技、滑舌の悪さが苛々させる。
子どもが観る映画なんだから、ちゃんと意味が聞き取れるように喋って欲しい。
それでなくても護国聖獣とか英霊の怨念だとか、平和ボケしたニッポンの子どもには、分かりにくいストーリーなんだから。

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ゴジラXメカゴジラ

東宝/88分 (公開:2002年12月)

特生自衛隊員たちのドラマに絞ったストーリー、特自三尉・家城茜(釈由美子)と3式機龍(メカゴジラ)の関係性は、どうしても『機動警察パトレイバー』を連想させちゃうんだな。
悪くはないけど、『パトレイバー』のほうが充実している。漫画やアニメの実写版がこれからゾクゾク公開されるけど、『パトレイバー』の実写版をキボンヌ。

釈由美子の硬い表情がアップになるたびに、無理してるな、と感じられた。
この人のルックスは、暗さが足りない。ストイックな役に向いていないと思う。
疎外されているのは承知のうえで、明るく振る舞っているような健気なキャラ設定のほうが、彼女の魅力を発揮できたし、観客もより共感できたんじゃないのかな。

総理大臣(水野久美)が事務的に語る状況設定は、もっとどうにかならなかったのか。
オリジナル『ゴジラ』や、『モスラ』、『サンダ対ガイラ』のフィルムをインサートしたいが為に、取って付けたような印象。
公開時には、円谷特撮へのオマージュ、それを演じるのはこの人しかいない水野久美の起用といった、マニアっぽい視点から単純に喜んでいたけど、改めて見直してみると雑に思えてしまう。
松井秀喜はじめ豪華な顔ぶれが、少しづつ出演しているのも余計に思う。
どうしても、それらの役者さんの方に気をとられてしまいますからね。
ゴジラが上陸した! 機龍が出撃した! さあどうなる!
……そんな状況の合間に、田中美里や永島敏行が顔を見せると(ほんと、歌舞伎の顔見世興行みたいだ!)、あ、この人も出ていたんだ、って別の次元に興味が移行して、緊迫感が分散されちゃうんだなぁ。
正月映画らしい華やかさ賑やかさが欲しかった、その気持は分かるけど、『ガメラ』のときの風吹ジュンくらいのサジ加減でやって欲しかったですね。

子役(小野寺華那)の演技はいい感じだったけど、(脚本家が書いた)セリフが、あまりにも陳腐。
子どもは大人に対して説教したりしない。不満や疑問を、無自覚にぶつけてくるだけ。「生きてちゃいけない命なんて無い」なんて、大人だってストレートには口にしないセリフを、子どもに喋らせてはいけない。
小津安二郎やフランソワ・トリュフォーや奥寺佐渡子が、子どもをどんな風に書いているか、少し勉強して欲しい。

ゴジラ退治のため、初代ゴジラの骨から巨大ロボットを作るってマンガチックな設定に、ケチをつけるのは野暮ってもんでしょう。
本作では機龍暴走のスペクタクル場面をやりたいがための方便でしかなかったこの設定は、続編の『東京SOS』(2003)では、重要なストーリーに発展するそうです。

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ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS

東宝/88分 (公開:2003年12月)

手塚版ゴジラ「X(ばってん)」シリーズ第3弾は、前回『ゴジラXメカゴジラ』(2002)の続編で、機龍シリーズの完結編。別題「巨大同胞因縁日本海溝道行」。 『ゴジラXメカゴジラ』が、『ゴジラXメガギラス』(2000)の焼き直し(リメイク)だったように、今作もまたゴジラ退治に専念する防衛隊員たちにスポットライトを当てた内容。つまり前作の焼き直し。脚本は手塚昌明と横谷昌宏の共同執筆。
怪獣大好きのよい子たちは、都合3回も同じお話を見せられたことになります。
東宝の(アタマの悪い)おじちゃんたち、大いに反省してください。

3式機龍(メカゴジラ)を修理している特生自衛隊の整備士・中條義人(金子昇)のところへ、インファント島に住む小美人(長澤まさみと大塚ちひろ)が現われ、「ゴジラの骨から兵器なんか作っちゃってダメじゃないの、ゴジラのお骨を今すぐ海に戻しなさい」と忠告する。
彼女たちが美人なのかはさておき(『南海の大決闘』のペア・バンビよりはマシか?)、どうして今頃になって出てくるの?
で、ゴジラが日本に接近、モスラが対応することになるんだけど……ここからのストーリーは、もう書きたくないくらいに杜撰(ずさん=出鱈目・手抜き・間抜け)。

義人は不完全な兵器を使うことに反対するが、家城茜(釈由美子)の後任で配属されたパイロットの如月梓(吉岡美穂)は、3式機龍での攻撃に積極的。
世論も機龍廃棄に傾いており、それでも機龍が出撃することを知っている観客の期待は、出動命令は如何なる脈絡でなされるかに焦点が絞られるわけ。
それこそが、特生自衛隊員たちを主人公に据えたこの映画のモチベーションでしょう?
で、総理大臣(中尾彬)が下した結論は……
「我々のために戦っているモスラを、機龍で援護するのだ」

ば〜か。
3式機龍を起動させないために、モスラが来たんでしょ?

で、義人が心配したとおり、3式機龍はコントロール不能となる……あれ?
前作で機龍のOSは書き換えられてたんじゃなかったっけ?
だから前作ではゴジラを撃退できたんでしょ?
しかし、(OSが書き換えられているにも関わらず)制御不能となった機龍は、な〜んと、ゴジラを抱いて海底に沈んでしまう……あれ?
小美人は、機龍が制御できなくなって大変なことになるから、おやめなさいって忠告してなかったっけ?
どうして初代ゴジラ(……のDNAだか残留思念だか知らないけど)は、人類の味方になって、同類のゴジラを諫めちゃったりするわけ?

いや、それよりも、初代ゴジラの骨が物語を結末に導くのであれば、小美人の警告ってぜんぜん的外れって言うか、まったく逆のことを言ってたわけでしょう?

どうなってるの?
怪獣映画って所詮子供騙しだから、怪獣が暴れて都市が破壊される場面があれば、ストーリーの整合性なんて、どうでもいいの?
マニア受けを狙ってカメーバの死骸とか見せているけど、本筋に絡んでこないから、単なる楽屋落ちにしかなっていないし、モスラも弱いし、ゴジラも弱すぎる。
人類の都合でゴジラを退治するというより、製作者側の手抜きで怪獣を殺しているって印象だな!

エンド・クレジットの後で、ゴジラ細胞を利用しようとする組織が描かれる。
(次回作は『ゴジラVSビオランテ』のリメイクなのか?)
手塚監督は『ゴジラXメガギラス』のときも最後にちょこっと寸劇を入れてたけど、こういうのが好きなんだろうな。
俺は大嫌いだけど。
90分弱の時間を使ってようやく導いた結論(ゴジラ心中=日本海溝に沈んじまった哀しみ)が一瞬にして覆されるだろ?
大島ミチルがラストシーン〜エンド・クレジットに用意した鎮魂歌は、いったいなんだったんだ?
ストーリーが終わったあとで、前言撤回するのは、作り手が観客を莫迦にしている証拠。
そして自分たちが作ったものに愛着がないってこと。
そんなクソ映画、褒めてやるもんか。

特撮はますます酷くなった。
雲海の中を飛行中のF15Jと未確認飛行物体。<これ『ガメラ3 邪神覚醒』の真似です。
全体にプロモーションビデオっぽい、格好いい絵柄を並べてみせるだけ。

アニメ世代のゴジラは、はっきり言ってもう飽きた。

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